哲学の道
京都に西田幾太郎が愛した、「哲学の道」という散歩道があるそうです。
四季折々に草木の花が咲き散歩人を楽しませてくれるとのこと。
中世の修道院の中には「祈りの回廊」というのがあって、歩きながら祈るのです。何の変哲もない道の方が良く祈れるそうです、当然気が散らないからです。
私も相模川の土堤を散歩するのが好きです。哲学者風に片手をポケットに突っ込んで、ハットを深くかぶり考えながら歩くと、時にはブログのためのひらめきがある。
しかし、いまどき早咲きの桜が咲いていたり、梅に鶯らしき鳥が止まっていたりするとすぐ写真に収めたくなり哲学どころではない。
周りを見ないようにして歩いてみるんだがやはり、「今晩のおかずは何かな?」とか雑念が入る。哲学は難しいまだ修行が足りないようだ。
パウロがギリシャ哲学に精通していたアテネの人と議論した時、肝心の時、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、他の者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』」(使徒の働き17章32節)と逃げられてしまった。
哲学はとにかく難しい。
早咲きのさくら
「感動する道」では哲学できないのだろうか
