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聖書を読むかい

             「聖書を読むかい」の資料    田名尚文
日 時     平成18年6月7日 12:00~ ホテル「ジュラク」にて
説教題     「永遠の命を受け継ぐ」
聖書箇所    マタイによる福音書(19章16節―30節

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み言葉の学びの前に、ユニオン・チャーチ・マニラの聖歌隊の賛美をお届けしましょう。

     
序論 
私たちは、み国の価値観をどのように理解しているだろうか。神様は遠のご計画に基づいて万物をお造りになった。しかし単に創造されたという
ことに留まらず、そのご計画に基づいて、神様は今も働き続けておらる。(ヨハネ5:17)その神は、神の働きに参与し、み国(神の支配)を共に完成させる人々をこの世から召し出された。それがみ国の民、つまり教会のメンバーなのである。では、このみ国の民となるためにはどのようにしたら良いのだろうか。それは人間的な努力で間に合うのか。そのみ国において、神様はどのような原則で民を取り扱うのか。このような重大な問題に対してイエス様は解答を示されたのである。
一人の青年が永遠の命を求めてイエス様のもとを訪れるところから始まる。
彼は金持ちで(22節)、この直前に登場する無力な子供達と好対照をなしている。子供達は人々に連れて来られたに過ぎなかったが、イエス様から祝福を受けた。この青年は自分の力で熱心にイエス様を訪ねながら、イエス様に従いきれず、
悲しそうな顔をして去っていく、み国に入る者とみ国から締め出される者との違いが鮮明に描かれている。
私たちは福音書を読むとき、イエス様が実際にこの地上で活動されていた時代と、イエス様が贖いを完成されてから後の時代と区別する必要がある。
     イエス様がこの青年と会話されていたときは、いまだ(十字架の復活に基づく)
新しい契約はスタートしていない。だからイエス様は古い契約秩序の中で、この青年の命を得る道を示す必要があった。実は理論的に言えば、律法を本当に守ることが出来れば永遠の命を受けることが出来る。その点ではイエス様は的を得た返事をしたことになる。だが問題は、律法をすべて守り切れる人はいないことにある。律法を守り切れないという自覚こそ、福音の恵みにあずかる出発点なのである。
本論 
ポイント1 「み国に入る資格」(19:16-22)
 青年は、パリサイ人のように、イエス様を罠にかけようと訪ねて来たわけではない、むしろ、日ごろから宗教的な事柄に敏感で、地上のものばかりだけでは満足できず、「永遠の命を得たいと熱心に願っていた。それゆえに彼はイエス様に近づき、「先生」と呼びかけた。「先生」はラビ(ユダヤ教の教師)とほとんど同義語で、教師としての尊敬を表す呼びかけである。だがそれ以上の意味はなく、
自分の歩みに対して絶対的な主権を認める「主」という称号とは違う。従ってこの青年は、イエス様を信じて近づいて来たのではない。この青年はイエス様に「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねた。「永遠の命」はイエス様によって「天の国」という言葉に言い換えられており、(23節)さらに弟子たちによって「救われる」という表現に置き換えられている。(25節)従って、「永遠の命」は「天の国」に入ることであり今日のクリスチャンが言う「救われる」という言葉の内容と同じものである。この質問の背景には永遠の命は善行によって得られる褒美なのだという認識が前提にあったのである。
 イエス様は彼に言われた。「なぜ、良いことについて私に尋ねるのか。善い方はおひとりだけである。」もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエス様は言われた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」そこでこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか。」
 イエス様はここで、十戒の後半部分を(人間との関わりにおける戒め)にのみ触れ、前半部分(神との関わりにおける戒め)を省かれた。これは青年に戒めを守らせることが目的だったのではなく、律法を守れていない自分を自覚させる為だったからである。求道者の心で自らの欠けを補おうと謙遜に求めていたのであれば、わざわざイエス様のところに来る必要もなかったであろうから彼の心の中は自信と不安が同居していたと思われる。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
ここで(普通)と(完全)いう二通りのレベルがあってそのうち完全な姿を求める、のであれば、という意味ではない。青年は永遠の命を求めて質問しているのだから、永遠の命を受けるにふさわしい完全さを身につけるには、という意味である。青年はすでに自分の戒めは完全に守っていると錯覚し、永遠の命を受けるにふさわしい完全さの追究する気持ちを失っていた。それゆえイエス様は「完全になりたいのなら」とチヤレンジされたのである。資産を売って貧しい人々に
与えなければ永遠の命を受けられないとは、聖書のどこにも教えられていない。
この命令の目的は、青年が本当には律法を守っていないことを自覚させることにあったのである。さらにこの青年は地上の歩みにのみ関心を注ぎ、永遠の世界を軽視していたことを暗示する「天に宝を積む」とは神様からの報いを期待して歩む生活のことで、一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠の世界を中心に生きる歩みを指している(6:20-21)
青年はイエス様の言葉を聞き、「悲しみながら立ち去った。」これはイエス様の言葉を理解できなかったからではなく、分り過ぎるほどよく分ったからである。
永遠の命は何より大切なことを頭で分っていても、富への執着心は消えがたくその富が妨げになることを認めたくなかったのである。

ポイント2 「神によって可能」(19:23-26)
 23節の「金持ち」とは前節22節の「財産」とは違い、「満ち足りている」
という言葉を語源としている。お金や物資をたくさん持っていることによって満足感や幸福感が満ちる状況を強調している。そのような人にとってはこの世のことが一杯で、イエス様のことやみ国のことのための余地は残されていない。 
だから「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言わなければならなかった。富はこの世の生活に満足感をもたらし、霊的世界への渇望を薄め、み国を遠ざけてしまうのである。そして「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言うたとえを使って、人間にとつて全く不可能なことをユーモラスに伝えていると解釈するのが自然である。
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それではだれが救われるのだろうか」
と言った。イエス様は彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。この聖句は、全ての所有物を売って貧しい人に施すことへの言及ではなく、永遠の命を受けることを指している。つまりイエス様は、救われるのは人間的な力によるのではなく、神の贖いの業があって
初めて可能であると教えられたのである。そして永遠の命を受けると言うことは、自分の力で実現するものではなく、神様によってのみしていただく奥義なのである。

ポイント3 「従う者への報い」(19:27-30)
 ここでペテロは、かの金持ちの青年とは違い、自分たちは全てを捨てて従ってきた、ついてはどのような報いにあずかれるのかとイエス様に尋ねた。この質問は、ペテロがイエス様になんとか認めてもらいたいという利己的野心から出たもので青年とは同じではないというアピールであった。ところがイエス様はそのように尋ねるペテロを非難せず、弟子たちに対する素晴らしい報いを約束される。彼らの献身は純粋とは言えない面もあったが、イエス様はそのようなことには目を留めず、豊かな祝福を約束されたのである。
 「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、12の座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる。」この聖句、イスラエルの12部族とは「神の民」全体を表わし、旧約聖書のイスラエルと新約聖書の教会の両方を含めて解釈した方が良いと思われる。また「治める」は「決める」が語源で「審理する」とか「支配する」という意味に使われる。
 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」イエス様はこのリストで最初に「家」が、そして最後に「畑」が置かれ、その間に家族が挟まっている。つまり、イエス様に従う者たちは、自分の所有物をはじめ、大切な家族をも喜んで犠牲にする。キリストへの信仰は、大きな犠牲を伴うもので、福音を安価な恵みに変えてはならないのであると教えている。「永遠の命」とは、永遠に続く命と言うより、「来るべき時代にふさわしい命」ということである。
 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」この言葉は、この世の常識や価値観とは全く異なる「神の国の価値観」を明らかにしている。そして、これまでのイエス様と弟子たちとの会話の流れの中でどのような意味を持っているのかという点について、解釈者の間で意見の違いがある。恐らく一番自然なのは「先の者」を12弟子とし、「あとの者」を彼らより後にイエス様に従う人々と解することであろう。そして28-29節において
12弟子が他のキリスト者に勝てる地位に置かれると約束されたのであるから
本節は弟子たちに対して高慢にならないようにと警告されたことになる。もし28-29節が、全ての、み国の民に約束されたものであるなら、本節はキリスト者相互の間に何の差別もないことを強調していることになる。

結論
「永遠の命を受け継ぐ」ことは、イエス様を信じたときからこの地上においてすでに始まっている。
(参考文献)
マタイによる福音書(中澤啓介著)
マタイによる福音書(アレチイヤ-釈義と黙想)
マタイの福音者  (岸 義紘著)

コメント

富について、
金持ちの青年のところで、「クリスチャンは金持ちになってはいけないのか?」と言う疑問があるかもしれません。
決してそのようなことはありません。『できるだけ稼ぎ、できるだけ蓄え、そして、できるだけ与えよ。』ジョン・ウエスレーの言葉です。
繁栄には目的があります。『繁栄の目的』ウエンデル・スミス著、にも書いてあります。
神様は神を愛する人を繁栄させることを喜びとしています。
ただし、富の遣い方(倉に仕舞い込むだけでない)を間違いないようにしましょう。
資本主義社会(日本)で格差社会の出現が今問題になっています。このことを理解することが解決の糸口になるのではないでしょうか?

後のものが先になる、
私が体験しているこのみ言葉は、次の20章1-16節にもある通りです。
私は30数年前に救われました、しかし田名さんはほんの最近です、それもこんなに年を召してからです。でも彼のイエス様に対する愛、情熱はすごい、近寄ると火事になりそうな程に燃えています。私も太刀打ち出来ないほどの素晴らしいものを神様から与えられました。
年をとった者は多くの罪を犯してきています、しかし神様の救いを受けるには遅すぎることはありません。でも出来れば急いでください。

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