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2006年6月29日

老化現象?

今朝、図書館で、朝日新聞の朝刊を読んでいたら「鼾(いびき)」の記事が載っていた。三谷幸吉氏のコラムです。
私は最近、鼾を妻に指摘され、時には寝室を別にしてリビングに布団を敷いて寝たり、悪戦苦闘していたので同輩ができ内心ほっとした。
それもまだ新米みたいだから。

 氏が書いているように、本人は特別耳が悪いのではないが、いびきの音はぜんぜん気が付かないで寝ている。そして起きた時に、口で呼吸をしているせいか喉がかれて、たんがつまっている。
ただ横向きに寝るといびきをかかないようだ。
最近、テニスボールを背中に背負って寝てみたら、いびきをかかなかったそうだ。ボールが邪魔で、自然に横向きになるからだろう。

 老化現象があちこちに現れる年となったのです。
医師に相談し本格的に取り組もう。

「草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」
   イザヤ書40章8節


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森の中の軽井沢図書館、閲覧者が2-3人でひっそりしていた


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天窓からも緑の太陽光が入る


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6月の花アジサイ、英語でHydrangea(水の容器)、雨季の花です

2006年6月24日

リハビリテーション

リハビリテーションとは「再び適する状態に回復する」こと、とある。

医療の世界において、一昔前は、「生命を救うことで精一杯で、命が助かったのだから文句を言うな」と、いう様なことだった。
しかし、近年医学が進んで命が助かる確率が高くなると同時に、障害が残る人の数も多くなった。(脳梗塞でも適切な処置で一命は取り止めるが障害が残る場合が多い)
命が助かっても障害が残ると生きていくのに困難なケースが多い。
最近の社会情勢を見るとクルーゼンが主張している、
「命を救うことよりも、依存的生活から救い出すことが大切」は、正しい。
それで、最近「リハビリテーション」の必要性が高まっている。

リハビリテーションの精神は、アメリカでは「すべての人は平等に造られ、おのおの創造主によって、他に譲ることができない一定の権利が与えられている。その権利の中には生命、自由、幸福の追求が含まれている」(アメリカ独立宣言)に基づいている。
そして具体的な行動目標は、「TAX PAYERとすること」です。
すなわち社会復帰して税金を納めてください、と言うことです。

「二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」   マタイによる福音書20章33,34節

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病院において、リハビリの占める割合が大きくなっている
しかし、まだ日本での普及はそれほど多くはないのが現状

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ゲートボールを楽しむお年寄りたち(病院の窓より)

2006年6月22日

友のために祈ろう

 今朝のみ言葉は、
「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」ヨブ記42章10節、
『友のために祈れ』だった。

 実は最近数日、身近に環境の変化があり、なかなか祈りに身が入らなかった。(実はこのような時こそ祈りが必要なのですが)
はじめ、この言葉を見てもピンと来なかった。
ただ「み言葉ですから、そうしましょう。」と祈りだしたら、主の油そそぎがあり,祈りが深く導かれて、特にいつも祈っている人のためだけではなく、自分の心の中で苦々しく思っている人のために祈るよう導かれた。
クリスチャンたち、友のために祈ろう。

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花畑のマーガレット、高原(軽井沢)は春真盛り


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むらさきの花

2006年6月17日

感謝の経過報告

 皆様のお祈りに支えられ、長男は急速な回復に向かっています。
体から出ていた全てのチューブが取れて、まだ寝たきりですがこれからは歩行のためのマッサージとリハビリをするところまで回復しました。

 警察では「事故の状態からすると、だめかと思った。」と言われたほどしたが、神様の哀れみによって生かされたことを、感謝しています。
神様から特別に頂いた、貴重な人生を「主に喜ばれる人生」として生きて欲しいと思う。

「わが子よ。
 主の懲らしめをないがしろにするな。
 その叱責をいとうな。
 父がかわいがる子をしかるように、
 主は愛する者をしかる。」
        箴言3章11節


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看護の合間の息抜きに
御代田のメルシャン美術館にて、ユダヤ系、環境保護画家フンデルト・バッサーの夢のある作品

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美術館のカフェの窓から


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美術館とワイン工房に通じる白樺の庭

2006年6月12日

さよならマニラ

人生は旅。
旅はトラブルです。それでいいのです。
6月4日、長男望が交通事故に会い軽井沢の病院に入院中です。
私も日本に帰って、妻の玲子と一緒に息子のケアーに当たります。

 今回のマニラ滞在で、一番多く接したみ言葉は、「神がすべてのことを働かせて益(神の善)としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節です。すべての栄光が神にありますように!
 
 6月15日までが責任期間中ですが、ジュン先生もお元気にイギリスよりお帰りになりましたので、特別な配慮を頂き12日、帰国することになりました。
 期間中、十分な働きができませんでしたが、マニラ日本語キリスト教会のみなさんの温かいお心遣いと交わり、本当にありがとうございました。
今後も引き続きお祈りください。

「ああ。渇いている者はみな、
水を求めて出て来い。金のない者も。
さあ、穀物を買って食べよ。
さあ、金を払わないで、穀物をかい、
代価を払わないで、ぶどう酒を買え。」
     イザヤ緒5章1節

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ペニンシュラホテルの噴水
マニラの夏は暑かった! 水が恋しかった。


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マニラの空にはなんと言っても、ブーゲンビリヤが似合う。またね!

2006年6月 8日

モンテンルパ昔も今も

 マニラから南へ約30キロ、戦中から日本人が収監されていることで名の知れたモンテンルパ刑務所を訪問した。
ここは重罪人の収容所で、1万人の中で2千人が死刑囚とのこと。
 
 収監中の日本人のTM氏が、マニラ日本語キリスト教会に日本語の聖書が欲しいと手紙を下さったので聖書と日用雑貨を持って教会のメンバーが面会に行った。フィリピン女性と結婚して(したことになっている)捨てられ違法滞在となり訴えられ、莫大な借金を背負ったという事で収監される。(何人かの日本人があちこちに収容されているようだがほとんど同じケースと聞く)彼は2001年に入獄してすでに5年。

 いろいろな事があっただろうが、そこでイエスキリストを信じてクリスチャンになった。地上の苦しみはあるだろうが、天国へのチケットを手に入れたことは何ものにも代えがたい幸いである。

 パウロも獄中から新約聖書の手紙の多くを書いた。TM氏も1週間で新約聖書を読んでしまうとのこと。失礼な発言に許しを乞いて言わせていただけば、ある意味で社会にいて、仕事の奴隷になっている人生より有意義な時間を送っているのではないか。
今後、全能の主に期待し、一日も早く主のために社会に出て働けることを願う。

『キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、
    これらのものを糞土のように思っている。』
  パウロの言葉、 ピリピ人への手紙3章8節(口語訳)


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スーパーハイウエーからの入り口


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モンテンルパ刑務所のビル

2006年6月 5日

聖書を読むかい

             「聖書を読むかい」の資料    田名尚文
日 時     平成18年6月7日 12:00~ ホテル「ジュラク」にて
説教題     「永遠の命を受け継ぐ」
聖書箇所    マタイによる福音書(19章16節―30節

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み言葉の学びの前に、ユニオン・チャーチ・マニラの聖歌隊の賛美をお届けしましょう。

     
序論 
私たちは、み国の価値観をどのように理解しているだろうか。神様は遠のご計画に基づいて万物をお造りになった。しかし単に創造されたという
ことに留まらず、そのご計画に基づいて、神様は今も働き続けておらる。(ヨハネ5:17)その神は、神の働きに参与し、み国(神の支配)を共に完成させる人々をこの世から召し出された。それがみ国の民、つまり教会のメンバーなのである。では、このみ国の民となるためにはどのようにしたら良いのだろうか。それは人間的な努力で間に合うのか。そのみ国において、神様はどのような原則で民を取り扱うのか。このような重大な問題に対してイエス様は解答を示されたのである。
一人の青年が永遠の命を求めてイエス様のもとを訪れるところから始まる。
彼は金持ちで(22節)、この直前に登場する無力な子供達と好対照をなしている。子供達は人々に連れて来られたに過ぎなかったが、イエス様から祝福を受けた。この青年は自分の力で熱心にイエス様を訪ねながら、イエス様に従いきれず、
悲しそうな顔をして去っていく、み国に入る者とみ国から締め出される者との違いが鮮明に描かれている。
私たちは福音書を読むとき、イエス様が実際にこの地上で活動されていた時代と、イエス様が贖いを完成されてから後の時代と区別する必要がある。
     イエス様がこの青年と会話されていたときは、いまだ(十字架の復活に基づく)
新しい契約はスタートしていない。だからイエス様は古い契約秩序の中で、この青年の命を得る道を示す必要があった。実は理論的に言えば、律法を本当に守ることが出来れば永遠の命を受けることが出来る。その点ではイエス様は的を得た返事をしたことになる。だが問題は、律法をすべて守り切れる人はいないことにある。律法を守り切れないという自覚こそ、福音の恵みにあずかる出発点なのである。
本論 
ポイント1 「み国に入る資格」(19:16-22)
 青年は、パリサイ人のように、イエス様を罠にかけようと訪ねて来たわけではない、むしろ、日ごろから宗教的な事柄に敏感で、地上のものばかりだけでは満足できず、「永遠の命を得たいと熱心に願っていた。それゆえに彼はイエス様に近づき、「先生」と呼びかけた。「先生」はラビ(ユダヤ教の教師)とほとんど同義語で、教師としての尊敬を表す呼びかけである。だがそれ以上の意味はなく、
自分の歩みに対して絶対的な主権を認める「主」という称号とは違う。従ってこの青年は、イエス様を信じて近づいて来たのではない。この青年はイエス様に「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねた。「永遠の命」はイエス様によって「天の国」という言葉に言い換えられており、(23節)さらに弟子たちによって「救われる」という表現に置き換えられている。(25節)従って、「永遠の命」は「天の国」に入ることであり今日のクリスチャンが言う「救われる」という言葉の内容と同じものである。この質問の背景には永遠の命は善行によって得られる褒美なのだという認識が前提にあったのである。
 イエス様は彼に言われた。「なぜ、良いことについて私に尋ねるのか。善い方はおひとりだけである。」もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエス様は言われた「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」そこでこの青年は「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか。」
 イエス様はここで、十戒の後半部分を(人間との関わりにおける戒め)にのみ触れ、前半部分(神との関わりにおける戒め)を省かれた。これは青年に戒めを守らせることが目的だったのではなく、律法を守れていない自分を自覚させる為だったからである。求道者の心で自らの欠けを補おうと謙遜に求めていたのであれば、わざわざイエス様のところに来る必要もなかったであろうから彼の心の中は自信と不安が同居していたと思われる。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
ここで(普通)と(完全)いう二通りのレベルがあってそのうち完全な姿を求める、のであれば、という意味ではない。青年は永遠の命を求めて質問しているのだから、永遠の命を受けるにふさわしい完全さを身につけるには、という意味である。青年はすでに自分の戒めは完全に守っていると錯覚し、永遠の命を受けるにふさわしい完全さの追究する気持ちを失っていた。それゆえイエス様は「完全になりたいのなら」とチヤレンジされたのである。資産を売って貧しい人々に
与えなければ永遠の命を受けられないとは、聖書のどこにも教えられていない。
この命令の目的は、青年が本当には律法を守っていないことを自覚させることにあったのである。さらにこの青年は地上の歩みにのみ関心を注ぎ、永遠の世界を軽視していたことを暗示する「天に宝を積む」とは神様からの報いを期待して歩む生活のことで、一時的なものに心を奪われるのではなく、永遠の世界を中心に生きる歩みを指している(6:20-21)
青年はイエス様の言葉を聞き、「悲しみながら立ち去った。」これはイエス様の言葉を理解できなかったからではなく、分り過ぎるほどよく分ったからである。
永遠の命は何より大切なことを頭で分っていても、富への執着心は消えがたくその富が妨げになることを認めたくなかったのである。

ポイント2 「神によって可能」(19:23-26)
 23節の「金持ち」とは前節22節の「財産」とは違い、「満ち足りている」
という言葉を語源としている。お金や物資をたくさん持っていることによって満足感や幸福感が満ちる状況を強調している。そのような人にとってはこの世のことが一杯で、イエス様のことやみ国のことのための余地は残されていない。 
だから「金持ちが天の国に入るのは難しい」と言わなければならなかった。富はこの世の生活に満足感をもたらし、霊的世界への渇望を薄め、み国を遠ざけてしまうのである。そして「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言うたとえを使って、人間にとつて全く不可能なことをユーモラスに伝えていると解釈するのが自然である。
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それではだれが救われるのだろうか」
と言った。イエス様は彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。この聖句は、全ての所有物を売って貧しい人に施すことへの言及ではなく、永遠の命を受けることを指している。つまりイエス様は、救われるのは人間的な力によるのではなく、神の贖いの業があって
初めて可能であると教えられたのである。そして永遠の命を受けると言うことは、自分の力で実現するものではなく、神様によってのみしていただく奥義なのである。

ポイント3 「従う者への報い」(19:27-30)
 ここでペテロは、かの金持ちの青年とは違い、自分たちは全てを捨てて従ってきた、ついてはどのような報いにあずかれるのかとイエス様に尋ねた。この質問は、ペテロがイエス様になんとか認めてもらいたいという利己的野心から出たもので青年とは同じではないというアピールであった。ところがイエス様はそのように尋ねるペテロを非難せず、弟子たちに対する素晴らしい報いを約束される。彼らの献身は純粋とは言えない面もあったが、イエス様はそのようなことには目を留めず、豊かな祝福を約束されたのである。
 「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、12の座に座ってイスラエルの12部族を治めることになる。」この聖句、イスラエルの12部族とは「神の民」全体を表わし、旧約聖書のイスラエルと新約聖書の教会の両方を含めて解釈した方が良いと思われる。また「治める」は「決める」が語源で「審理する」とか「支配する」という意味に使われる。
 「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」イエス様はこのリストで最初に「家」が、そして最後に「畑」が置かれ、その間に家族が挟まっている。つまり、イエス様に従う者たちは、自分の所有物をはじめ、大切な家族をも喜んで犠牲にする。キリストへの信仰は、大きな犠牲を伴うもので、福音を安価な恵みに変えてはならないのであると教えている。「永遠の命」とは、永遠に続く命と言うより、「来るべき時代にふさわしい命」ということである。
 「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」この言葉は、この世の常識や価値観とは全く異なる「神の国の価値観」を明らかにしている。そして、これまでのイエス様と弟子たちとの会話の流れの中でどのような意味を持っているのかという点について、解釈者の間で意見の違いがある。恐らく一番自然なのは「先の者」を12弟子とし、「あとの者」を彼らより後にイエス様に従う人々と解することであろう。そして28-29節において
12弟子が他のキリスト者に勝てる地位に置かれると約束されたのであるから
本節は弟子たちに対して高慢にならないようにと警告されたことになる。もし28-29節が、全ての、み国の民に約束されたものであるなら、本節はキリスト者相互の間に何の差別もないことを強調していることになる。

結論
「永遠の命を受け継ぐ」ことは、イエス様を信じたときからこの地上においてすでに始まっている。
(参考文献)
マタイによる福音書(中澤啓介著)
マタイによる福音書(アレチイヤ-釈義と黙想)
マタイの福音者  (岸 義紘著)

2006年6月 1日

クリスマスグッズ

フィリピンはクリスマスグッズではアメリカ、ヨーロッパへのメジャーな輸出国です。
デコレーション感覚と、手先の器用さの上にカトリック国であることがその主な理由でしょう。郷土工芸品を売っている店では常時クリスマスグッズをおいています。
もちろん安いので、アメリカ、ヨーロッパからお客さん(バイヤー)がいつも来ています。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
      マタイによる福音書2章11節

今日はその一部を紹介しましょう。


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丸太のロウソク立てとテーブルクロス


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貝の飾りと麻の包装用リボン


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ドライフラワーを投げ入れるバスケットとハンドバッグ


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カラードプレートとフラワースタンド


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貝のランプシェードと布製のバラの花

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