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聖書を読むかい

今回の学びはマタイによる福音書18章です。
田名さんのシラバスを参考に乗せます、これをもとによき話し合いができますことと思います。

              「聖書を読むかい」の資料   田名尚文
日 時     平成18年5月24日 12:00~ ホテル「ジュラク」にて
説教題     「あなたは他人の罪を赦せますか」
聖書箇所    マタイによる福音書(18章21節―34節)
     
序論     ・今日は18章の総括とも言うべき21節から「仲間を赦さない
家来」のたとえを中心に考えてみたいと思います。
            ・人は罪を犯す性質を持っている。しかも大抵は、同じ種類の
失敗を何度も重ねる。残念ながら、罪は、発見されないかぎ
り繰り返される。これは人間の性(さが)である。
            ・では、ある人が罪を繰り返し犯す場合、何度くらいまで赦す
べきであろうか。ペテロがイエス様に、この点に関する質問
をぶつけた。イエス様の答えは、無限に赦せというものだった。
            ・前節(15節―20節)にてイエス様は罪を犯した兄弟にどのよ
うに、対処したら良いのか話されている。しかし罪を犯した
人にそのような忠告をするに当たり、どこに赦しの限界を設
定すれば良いのかという問題が生じてくる。このことに対す
るたとえ話なのである。
本論 
      ポイント1  「人の罪を何回まで赦せるか」(18:12-22)
             そのときペテロがイエスのところに来て言った「主よ、兄
弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょう
か。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言つ
ておく。7回どころか7の70倍まで赦しなさい。
            ・「そのとき」はマタイ書において新しい話を始める時の導入句
である。一連の出来事としてつながっているが、歴史上の実
際の出来事と時系列的に関係付けられているわけではない。
・ペテロは「主よ、兄弟たち」と尋ねた。「兄弟たち」とは霊的
家族の一員、つまりイエス共同体の仲間を指すのである。そ
してさらに「わたしの」という言葉が兄弟に付けられている
のは、この話が共同体内の一般的出来事というより、自分と
ごく親しい関係にある人との問題だったことを強調している。
            ・ここでは「罪」というだけで具体的にどのような罪なのかは
触れていない。罪の種類は、この話の主旨にとってどうでも
いいからである。

            ・「何回まで」という言葉には、イエス様から教えられた通り、
             赦すことは赦そう、だが限界がある、という気持ちが込めら
れている、「7回まで」という回数は、このときペテロが考え得た最大級の数字だった。ユダヤ教では、3回までは赦されているが、4回目は赦されないと教えていた。従ってペテロとしては7回赦すなら十分だろうという気持ちだった。
            ・しかしイエス様はそれでは不十分であると答えたのであった。
イエス様は当時のだれも考えていなかった高いレベルの生き
方をペテロに求められた。イエス様が言わんとされたことは
「無限に」という意味であって、変わらない。決して491
回目には赦さなくても良いということでは無いのです。罪を
犯した人に対して無限に赦しを与えるべきである。限界を設
けてはならない。神の愛は無限だからである。
            ・勿論、無限に赦すということは、罪を不問にすることではな
             い。このことは(15-20節)の勧めから明らかである。罪は
忠告され、悔い改めなければならない。と同時に、無限の赦
しが備えられなければならないのである。この「無限の赦し」こそ、イエス様が御国の民に備えてくださった、シンボルな
のである。
ポイント2  「王様からの哀れみ」(18:23-30)
      ・他の人が自分に対して犯す罪を、なぜ何度も赦さなければな
らないのか。この点を明らかにする為に、イエス様は本筋以
降のたとえ話をされた。尚このたとえはほかの福音書には出
てこない。
            ・王は家来に貸した金の決済をしたいと思った。
            ・この王は1万タラント(6000億万円)を借金している一人の
家来を前に返済をするように迫った。要するに借りた家来が
自分の持っている全ての物を売っても、あるいは生涯働いて
も返済できないほどの莫大な借金だったということである。
            ・その家来は「どうか待ってください。きっと全部お返ししま
す。」と言った。しかし王は家来を哀れに思って借金を免除し
てやった。
            ・喜んだ家来は帰宅する途中で仲間のしもべに出会った。仲間
のしもべは彼から100デナリオン(100万円)の借金をしていた。これは労働者の100日分の賃金で高額であるが、先の1万タラントに比べるとわずか60万分の1である。

            ・仲間のしもべはひれ伏して「どうか待ってくれ、返すから」
と言ったが、承知せず借金を返すまで牢に入れてしまった。
            ・王から赦されたしもべは、仲間のしもべを赦せなく投獄してしまったのである。
ポイント3  「兄弟の罪を心から赦すべき」(18:31-35)
      ・王に仕える他のしもべたちがこの一連の出来事を見ていた。
      ・事の全容を知った、しもべ仲間は、王の所に行き、彼らが見聞
       きした一部始終を王に告げた。
      ・その報告を受けた王は、先に1万タラントの借金を赦した、
しもべを呼びつけ、厳しく断罪した。「お前も仲間を哀れんで
やるべきではないか。」
            ・王からの哀れみを受けたしもべは、そのことを深く思い、仲
間を「哀れんでやる」ことが出来たはずである。赦すことが
当然の義務として述べられている。
            ・しかし、このしもべのとった態度は、王(主人)の怒りを引
き起こし忍耐の緒が切れた状況にさせた。さらにしもべから1万タラントをすっかり返済するまで投獄してしまったのである。
            ・このたとえ話は「王」が神を、「しもべ」が人間を表わしてい
る。「1万タラントの借金」とは、人間が神様に対して犯した
罪である。それはどのようにしても償うことの出来ないほど
大きなものである。ただ一方的な哀れみによって、赦してい
ただく以外にないのである。それに対して「百デナリオンの
借金」とは、人間が他人から受ける罪である。百デナリオン
であれば小額とは言えないが働いて返済することが可能であ
るはずである。それは神様に対して犯したものと比べると、
比較にならないほどわずかなものである。
結論       他の人の罪を赦すことが出来ない場合、一番不幸なのは、赦されない人ではなく、赦せない人の方である。他人を赦さない結果、自らの身体と心までも蝕まれていくのである。
        人の間で赦しを実践しない人は、神様の赦しを受けることが
        出来ない。神様の赦しは他人を赦すことと深く結びついている。
(エフェソ4:32)(コロサイ3:13)
(参考文献)    マタイによる福音書(中澤啓介著)、
マタイによる福音書(アレチイヤ-釈義と黙想)
マタイの福音者  (岸 義紘著)

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