トップ          日記          ハウスチャーチ          バイブルとビジネス          プロフィール          お問い合わせ

トップに戻る

聖書を読むかい

 5月11日(木)は「聖書を読むかい」です。
今回は、マタイによる福音書17章を読みましょう。
私はマニラから、このブログを通して参加します。

 前章16章21節で「イエスは長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえられる」と弟子たちに初めて十字架と復活を示された。
天の神さまがイエスをこの地に送られたのは、十字架に架かり復活すること、すなわち私たちの罪のために死に、永遠の命を与えらるることでした。
しかし、弟子たちは、当然イエスは王であって、この国を改革してくれるお方と思って誤解していた。
特にペテロは「主よ。***。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言って、逆にイエス様から「下がれ。サタン。あなたはわしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と諌められたのです。

と言うわけで、その誤解が少しでも解けるように、イエス様は特に近しい弟子3人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたのです。(ヘルモン山と思われる)
そこで弟子たちに、復活の予告編を見せたのがこの「イエスの変貌」と言われていることです。モーセとエリヤは旧約聖書の律法と預言者を代表する者です。しかし神の声は「イエスに聴け」とおっしゃられた。イエスは神の子であり、モーセやエリヤの仕事を完成させるものである。

それでもまだ、弟子たちはエリヤの代わりがバプテスマのヨハネであるところまでしか理解していません。(13節)
12節の、「人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています」を現実のものとして捉えていません。私たちも同じように、なかなかイエス様のことがわかりません。むしろほとんど誤解しています、彼らも同じだったのです。

3節、「み衣は光のように白くなった。」とありますが「英語でShining White」二千年前から現代の蛍光塗料、蛍光洗剤の発想があったのは驚きです。

この章の後半、20節で「からし種の信仰」が出てきます。鼻息で飛んでしまうほど、また取るに足りないほど小さな信仰ですがこれが山を移すほどの力があると言うのです。
何としてでも「この信仰」を手に入れたいものです。
主の祝福あれ!


エリヤ.JPG

エリヤ一人がカルメル山でバールの預言者450人、アシュラの預言者400人と戦った(Ⅰ列王記18章)

peter's fish.JPG

ガリラヤ湖畔の町カペナウムで食べたペテロの魚、醤油とワサビをつけて美味しくいただきました。
この魚の口から出てきた金貨をイエスとペテロの税金として納めた
(マタイ17章27節)

コメント

             「聖書を読むかい」の資料     田名尚文
日 時     平成18年5月11日12:00~ ホテル「ジュラク」にて
説教題     「思わずイエス様にひれ伏す」
聖書箇所    マタイによる福音書(17章1節―8節)
     
序論      ・イエス様は19章以降、エルサレムに向かって旅をされる。
        ・十字架上で全人類の罪を背負って死なれるためである。
        ・イエス様は三人の弟子を連れて高い山に登られた。
・弟子たちがイエス様の受難の意味を本当に理解する為には、イエスの本当の姿を十分に認識しておく必要があった。
・この出来事は「山上の変容」と呼ばれイエス・キリストの神的本性が啓示される出来事であった。
・イエス様はマリヤの子として生を受け、全き人間となられた。外見上は普通の人と全く変わらなかった。しかしそれでは本当のキリストを理解したことにはならない。実は、キリストは本来、神のみ姿をもっておられたが、この地上にお出になるに当たり、その神的側面を捨ててこられたのである。(ピリピ2:6-8)
本論 
 ポイント1  「イエス様はみ姿を変えられた」(17:1-2)
・前節で(16:21)弟子たちがイエス様の受難の予告を聞いてもよく理解できず当惑していたのであった。
        ・(6日の後)とは、ペテロがイエス様に対して信仰告白
(16:16)をしたときから数えてであり、ペテロの
信仰告白とキリストによる最初の受難予告があってから
1週間後、という意味である。
             ・イエス様が内弟子ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネの三人に対し変容の姿を示されたのは三人だけを特別扱いするためではなかった。この出来事の証言を確保するためであり、律法は、一つの出来事に対して二人または三人の証人を要求したが(申命19:15)、彼らは、イエス様の栄光の目撃証人という役目を担わされたのである。
             ・イエス様と一行三人は、高い山(タボル山)に登り人里はなれた場所にたどり着いた。するとイエス様は、三人の弟子たちが見ている前で、突然姿を変えられた。それは服や
              着物を着替えることによって表面的に変わることではなく、一つの状態からもう一つの状態へと根本的な変化を遂げて


いたのであった。すなわち弟子たちがこの変容を見たのは
              受肉以前の、つまり神性に覆われたイエス様のみ姿であった。
             ・しかも光り輝くそのイエス様の傍で、何とモーセとエリヤが立ち親しい会話をしているではないか。
             ・「モーセ」は神から律法を付与され、旧約聖書の最初の5巻を著した。つまりモーセは律法の代表者である。
             ・エリヤはBC850年頃活躍した預言者である。預言者マラキは、メシヤ再臨前に、まず先駆者エリヤが来ることを預言していた。従ってエリヤは預言者の代表者である。
             ・これは旧約を代表する二人の人物が旧約聖書を成就するために来られたイエスの傍に現れ、その復活の体を先取りした者として登場したのである。
ポイント2  「ペテロの応答」(17:3-4)
       ・モーセとエリヤがイエス様と語り合っている時、ペテロが
        口を挟んだ。ペテロはまず「主よ。わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と告白した。確かにこのように、限られた弟子にのみ与えられた霊的特権であった。しかしここまでの言葉は良かったが次に「お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。」と言ったのである。どうしてペテロはこのようなことを述べたのか。ペテロが三人と共にいることに霊的な喜びを覚え、地上に戻りたくないと思ってこのような発言をしたと考えられている。
        しかしペテロの言葉には、幾つかの認識不足があった。
        第一に3つで間に合わない。そこにはペテロ自身の小屋がないからである。第二はモーセとエリヤは肉体を持っていたわけではないので、幕屋は必要がないはずである。第三にはモーセおよびエリヤをイエスと同等に扱ってしまったことである。いずれにしてもペテロは三人を天からの来客とみなし歓迎の意を表明した言葉としてとっさに出てしまったと考える方が正しいと思える。またそれほどしか理解していなかったと見るべきなのか解釈が分かれる。


ポイント3  「イエス様が語られた」(17:5-8)
       ・(ペテロがこう話てしているうちに)とは、ペテロの発言が終わらない内に途中で遮られたことを意味している。神の声は、ペテロの提案は余分であると言われたことに等しい
        と言わざるをえない。
       ・先にペテロは(16:23)イエス様の受難を否定する発言をして、イエス様から叱責を受けていた。ペテロは再び失態を演じたのであった。
       ・雲がイエス様、モーセ、エリヤを覆ったとは、彼らが弟子たちの視界から消え去ったと言うことである。
       ・神は、その雲からイエスについて重要な宣言をされた。
        (「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これを聞け」という声が雲の中から聞こえた。)これを聞いた弟子たちは恐れた。
・この言い回しはイエス様がヨハネからバプテスマを受けられたときに語られたもの(3:17)と同じである。つまり「愛する者」はメシヤの称号であり父は御子の働きや活動に対して、満足の意を表明したのであった。
       ・三人の弟子たちは、神の御声を聞き、大きな衝撃を受けたのであった。このように神の聖なる臨在にふれる信仰体験は重要なことである。ただその恵みに慣れすぎて、神への
        恐れを失うようであれば、どこかおかしいと考えなければならない。
       ・イエス様は怖がる弟子たちに手を差し伸べて「怖がることはない」と励ましの言葉を言われた。恐る恐る目を上げて見るとそこにはイエス様お一人だけであった。
       ・モーセもエリヤも消えイエス様ご自身も元の姿に戻っておられた。つまり、霊的な世界が閉じられ、現実の世界へ帰ったのであった。
結論      ・三人の弟子たちは、変容されたイエス様に出会った。
        この特殊な体験を通じてイエス様がどのようなお方であるか
        を認識できるように備えられたものである。私たちが信仰生活の中で栄光に輝くイエス様にお会いして、ひれ伏したことがあるだろうか。
(参考文献)    マタイによる福音書(中澤啓介著)、
マタイによる福音書(アレチイヤ-釈義と黙想)
マタイの福音者  (岸 義紘著)

5月11日は予定していた時間と場所にて「聖書を読むかい」を開催いたしました。小平先生のブログ注解を中心に
説明することから始まりました。そして資料の課題説明に移りました。解釈の違いの説明がうまくいかず聖書の中の不明瞭性と普遍的妥当性が存在していることを理解するにとどまりました。例(高い山である場所の特定)
 聖書は誤りのない神の言葉としてとらえることを基本にしています。主イエス・キリストの福音を多くの人に伝えることを目的としている、この会は小平さんのブログを見ても明らかであり、不明瞭性の追究は福音の正しい解釈の上で議論すれば良い小さな課題である。---- と小生は考える。
 小林さんと田名と二人の集まりでしたが充分に盛り上がり
ました。(小林さんの冴えた突っ込みにより)
さて次回は5月23日(水曜)12:00から御茶ノ水駅前ホテルジュラクにて予定しています。
マタイによる福音書18章を学びたいと思います。
 また小平さんの注解を楽しみにしています。  在主                   tana


次回「聖書を読む会」日程の件
前述した日程に間違いがありました。
5月24日(水)の予定を23日(水)と記述
しましたが23日は間違いです。24日が
正解です。これを指摘して下さったのは
小林さんです。感謝しております。
ありがとうございました。
 訂正してお詫び申し上げます。
尚 場所、時間は従来通りですので宜しく
お願い申し上げます、       在主
             tana

コメントを投稿

オススメ書籍

失われたアイデンティティ
Ken Joseph Jr.著

彼は日本を代表するNGO「日本緊急援助隊」の代表である。又、一外国人でありながら日本人のルーツを調べ、日本人の心のふるさとが聖徳太子以前からキリスト教に多大な影響を受けていることを発見した。おどろきである。
009-002.gif
記事下のコメントをクリックしてご意見、ご感想をどうぞ。

rss.gif
[RSSとは]

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.
Powered by
Movable Type 5.2.3
Copyright (C) 2006 by Bible Ministry Co. All rights reserved.